[Update] 考えてること
2016·05·23
今宵の月はどうでしょう。こんばんは、@CreatorQsFです。
最近、勉強する上で大きく捉えられるようになったことが1つあります。
世界史を勉強する上で気づいたことといいますか。
「論理の一貫性」のお話です。
自分の展開してきた論理が誤りだと、気づいてしまったら、もしその論理自体を否定する論理を自分で生み出してしまったら。
そういうこと、きっと一度や二度ではなく、みなさんは体験して、そしてその当時は気にして、でもいつの間にか過ぎ去っているのではないでしょうか。
そういうことを私はどうしても見逃せなくて、自分の中でずっと論理の一貫性と葛藤しています。その時点でその論理が破綻していることに気づいているはずなのに。
おとなになるにつれて自然に気にならなくなってくるのか、論理が一貫するものだと、勝手に思ってた。
でも、そうじゃなくて、むしろそういう悩みというか、考えなくちゃいけないことが増えてて。内田さんの言葉を借りるなら、フレームワークの破綻。
で、それが些細な事ならいいのですが、もしも大きなことだったら。まだたったの17年しか生きてない人生において、それが3年という大きな確かな幅を持っていたら。
Appleが好きになったのって、彼等のやっていることはどこか「一貫性がない」ように見えてて、ふと振り返るとめちゃくちゃ一貫してる、そんな発見ができることなのかな、と思うようなこともあります。
ノリロウさんのnorirow’s Report(最近Diaryから変えられたらしい)もきっと似たようなことなんです。人は自分にないものを欲しがるんです。
そういうわけで、私は昔から、たまに自分の衝動的行動を信じて後悔することと、熟考した結果を信じてあげられなくて後悔すること、この2つが本当に多い気がしてます。
なんとなく、衝動というかふっと気づいたことって、正しい、そういう風潮ってあると思うのです。
でもそれってただの願望でしかないのかも。
熟考したことって、熟考したのに直感的にアウトだと思うことの前に崩れ去ることっていっぱいあるから、自分を信用して上げる理由に足らないことって、あるとおもうんです。そういうわけで熟考してその事自体を疑って、疲労しているうちに、考える事自体をやめてしまう。
言い換えると、正しいと思っていた、思うことが、正しくないと認めざるを得ない。
なんで思想ってするんでしょうね。生きてるっていう事実だけがあればいいじゃない。
最初に、世界史を勉強する上でっていうのは、こういう人が過去にも多くいて、それが政治や歴史自体に大きく影響を及ぼしてきたことも学んだからです。
でも勉強するから、というより他人を学んでも、知識しか手に入らない。失敗例と成功例と、せいぜい真似できる論理だけ。
どれだけ本を読んでも、考えても、出てくるのは他人の言葉と考えばかりで。
昔から、知識のmeta情報を覚える方なのですが(たとえばこの情報はどこの本の何に書いてあったとか)、そのために自分の話すこと、利用しようとする論理の出典がなんとなくわかるのです。どれだけそれを自分で噛み砕いて納得しても、それって自分の論理じゃないんです。
唯一考えてきた自分の論理も、そうやって気付かされることで、正しくないと認めるべきだという論理が自分の中で生まれたら。
「思い」とはよく言いますが、最近は自分の中でそれが揺らいでいる状況です。自分の中の何を信じてあげればいいのかわからない。 で、やっと見つけた1つの突破口みたいなものが…。
「認める」ということです。驚きをもってそれを迎えるのです。もはや自分では論理を持たない生き方です。自分の論理さえもそれを自分という他人の論理として受け止めて、それを1つの選択肢にしてしまい、常に自分は空となる生き方。
こうやって何を書いても、ばかみたいだなと思うことってたくさんあります。自分の能力にたいして厳しい辛さを覚えた時に、自分に自分から放たれる言葉がほんとにきつすぎて。多分他人に何を言われるよりも、同じことを言われるよりも自分自身にそのことを言われるっていうのは一番きついこと。
生き方って難しい。Goだけを追う人生もあると思いつつ、そのGoを書くという行為自体への疑問視する内部からの声。
何も生み出せない。
おわり